Leben


by satsuki_ok

境界例と自己愛

境界例と自己愛からの回復

自己愛から受けるイメージについて検索中
精神分析のHPを見つけた。

こうした分析の類の文章を読むと、どれもコレも自分に該当してしまうと考えてしまう人がいる。
ちょうど、医者の卵の中に、疾患を勉強中に、すべてを自分のみに置き換えて考えてしまうために、勉強中の疾患に自分自身がなっているのではないか?と不安を覚える人がいるのと同じだろう。

ぼくは誰の心の中にも、多かれ少なかれ歪みは生じているものだとおもう。
そのすべてを病気として考えることには、いささか疑問があるのだ。
それはもしかしたら「個性」の範疇かも知れない。

病気であるか、健康であるかという点について、考えるときに果たしてどういうイメージを持つのだろう?
「病気である」人は、「健康である」こととは違うから排除すべきだと考える人は、常識的な人であるならば、まずいないだろう。
しかしながら、「違う」という認識を、双方が保つことは非常に重要であると思われる。
違いを認めてこそ、そこに生じるであろう様々な「不都合」が理解し合えるのではないだろうか?

ぼく自身の幼い頃の体験が、少なからず、今の自分自身の精神状態を形作っていることは否めない。だからといって、それだけにとどまっているとも、ぼく自身は想わない。(他人にはどう映っているか疑問だけど)

いつもおもうのだけど、人を判断するときに、自分自身を誰でも基準にもってくるものだ。
したがって、その自分という基準がはっきりしていなければ、他人を「正しく」理解することもできない。

バネが一方向にねじ曲がっているものを、急激に強い力でひっぱって矯正することはできない。
自然の流れというものの中で、たおやかに過ごすことにより、いつの間にか「まっすぐ」になることがあるかも知れない。
バネのまま生きることもまた一つの選択肢である。

ぼく自身に翻って考えるに、ぼくの中の「妄想」がある意味では「自己愛」であると言えるだろう。
ここはネットという世界である以上、すべてにおいてここに書かれていることが真実であるという保証も、ウソであるという証拠もまたないのである。
何をもって真実と感じ、何をもって虚構だと信じていくのだろう。
ぼく自身が「感じた心」
それだけが真実であり、ぼくにとっての愛である。

他人の思惑というものは、あくまでもその人の考えである。
自立あるいは自律する精神。

混沌とさせてはならない。
ミソもクソも一緒にはならない。
時折感じる「整理のできていない感情」に、「理性的な判断」は下せない。

この記事を読んで、考えたことをメモした。
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by satsuki_ok | 2005-09-07 00:04 | 芸術?