マグダラのマリアに関する本について

以前から話題になってる本だけど、ダ・ヴィンチ・コードに関する本を数冊購入した。面白い解釈だと思った。イエス・キリストが処女から生まれたからといって、チェリーボーイでなければならない法はないものね。
女嫌いだったペテロが教会の祖である以上、禁欲的な生活があたかも信者の鑑のように考えるのもいたしかたないことだろう。
しかし、そもそも、そのペテロ自身が書簡で書いているのは、「情が燃えるよりは、結婚するほうがよい」と書いてあるのだから、禁欲でなければならないとは言っていないのだよね。
しかしながら、注意すべき点は、「情が燃えるよりは・・・」と書いてある点だ。
奔放であれとも言ってない点には、十分な注意を払うべきだと思う。
下半身で恋するかもしれないが、上半身で節制すべきなんだろうね。
情が燃える=欲情すると解釈するならば、だけれどもね。

頭の中で犯した罪を、そのまま実行に移す人は、稀だろうとぼくは思うのだ。
しかし、頭の中で構成されたことでも、ひとたび、こうしてネット上で公開してしまえば、それはもうすでに、頭の中ではない。公開された言葉であり、一つの事実である。
とするばらば、ぼく自身非常に反省すべき点が多々ある。
ある人には陳謝したい気持ちでいっぱいである。
許してもらえるとは思っていないけれど、ぼくはせめて、フィクションとして、ココを続けていきたいと考えた。

ぼくにとっては、とても大切な出来事であったわけだし、忘れたいとも思わないから、大切にしていきたいと考えている。
あの頃語っていた言葉は、まぎれもなく、ぼくの心から産み出された真実な心の声だった。
こんな経験は、そう滅多に出会えるものでもない。
少なくとも、ぼくの人生の中では、初めての出来事だったし、これから先もないだろう。

しかし、それはあくまでも、ぼく自身の問題であり、ある人には何のかかわりもないことである。
勝手に好きになられたほうはたまったもんじゃないよね。(苦笑)
迷惑旋盤とはおこのことだね、まったく。

マグダラのマリアがイエスの伴侶だと仮定したとき、なんだかホッとしたぼくがいた。
人が人である以上、恋をして、愛し、愛されたいと願う自然な欲求を、救い主自身が知っていたとしたならば、人が犯すもっともおろかな所業も、彼自身が苦悩していたならば、そのことが理解できるとおもったからだ。

たしかに、迷い出て、さまよい歩き、ついには野たれ死んでくことになりかねないのが、「恋愛沙汰」かもしれない。けれど、そのことで、「より人間らしく厚みのある人間性」が現れるのではないだろうか。
主はまたそのことを否みはしないと思うのだ。

くどいようだけど、それは「奔放な性の容認ではない」
一人の人間が一人の人間に対して、あらん限りの力をもって心と体で、真実と向き合うことではないかとぼくは考えている。

性別のいかんはそこで問題にされない。
なぜならば、天国に性別は必要ないからだ。

そんなことを考えた。
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by satsuki_ok | 2005-10-17 22:52 | 芸術?