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ヨハネの手紙を読んで


御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。
(ヨハネの手紙第1章7節から)

洗礼を受けたのだから、
一瞬にしてその時までの過去の全てが精算されて、
その後まったく罪をおかさないで済むようになる。。
そんな誤解がキリスト教の洗礼に対してあるような気がする。

キリスト者は、罪があるからキリスト者である。
いや、罪を知っているからこそ、キリスト者である。
そして、罪を日々悔い改めるから、キリスト者であるのだ。
多くの人の場合、神懸かり的な「変化」が訪れるわけではなく、
それは継続していくことにより、少しずつ削られながら、
服に付いたシミを落とす作業のように、地道な根気のいる作業である。
あるいは黄ばんだ白い服を漂白していく作業。

知らず知らずのうちに「打算」や「妥協」し、
心の中が薄汚れていく。
激しい憎悪で赤黒く焼けこげた跡かも知れない。
生地によっては、漂白できない種類があるように、
人の心はさらに複雑でデリケートな取り扱いが必要となる。

それは、人にできる作業ではない。
人をつくられた神にしかできない作業である。
ただ私たちはそれを目にして、あるいは触れることによって、
その偉大な御技をする神に感謝するのである。

今、間違った道を歩んでいたとしても、そのことで「罪を知る」ことができるなら、
それは死に至る罪ではなく、かえっていのちへ続く門前にいるのかも知れない。
罪を罪として認めた時、そうしてそれを悔いた時、
はじめて主の尊さ、きよさが実感できるというキリスト者の真実。

ふがいない自分への言い訳。。。かな。。。(苦笑)
by satsuki_ok | 2006-10-01 13:58 | パンの耳