記憶のはじまり

それは、ある日の昼下がりのことだった。
その日朝からソワソワしていた母が、
玄関のチャイムの音に背筋を伸ばして
駆け出しそうな思いを秘めながら
ぼくの手を握りチャイムを押したお客をお迎えに出た。

「今日からこの人がお父さんよ」と、
淡々と母はぼくに言った。
3才の頃、ぼくの記憶はそこから始まっている。

その人は、あの日別れた前の夫の友人だった。
名家の家に生まれながら、その家の冷たさに馴染むことができず、
身を持ち崩しかけていた次男坊。
おんなが前夫に別れ話を切り出した時、
「手切れ金を300万用意できたら別れてやる」と言ったその代金を
何も言わずそっと差し出したおとこである。
「必ず返します」というおんなに一言だけ、おとこはこう言った。
「犬猫でももらうときには、いくらかお礼をするものだ。
ましてや、ぼくはあなたを嫁にもらいたいのだから、そんなことは気にしないでいい。」
「私は、子どもをおいてはいけません。」
「子ども置いてくるようなおんななら、プロポーズしたりはしない。」

こうして、ぼくには父ができた。
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by satsuki_ok | 2006-10-07 22:59 | 短編