Leben


by satsuki_ok

カテゴリ:パンの耳( 56 )

愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。
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by satsuki_ok | 2013-01-05 05:57 | パンの耳

あしあと

今更ながらかもしれないけれど、
虐待とか、だますとか、裏切るとか、暴力だとか
人間だけがもっている残虐性みたいなものを考える機会を得た。

障害、病気等と違い、人為的に作られていく不幸。

弱肉強食。。そう言い換えてあたかもその行為を正当化してるかのような錯覚。

未だに青臭くそんなものが許せないと思ってしまう。
吐き気すら覚えるほどに。

その裏に弱さが隠れ、甘えが隠れ、愛に飢えた姿があるとしても
抑圧された負の感情を、他人への攻撃性に変換してしまうことの異常さ。

欠落している人間性。

それを形成していく過程(家庭)において、何をおいても必要不可欠なもの。
親からの愛情とその道の専門家がしたり顔で話している。

はたしてそうだろうか?
親や世間のせいばかりでないと、私は思う。
個人の資質の問題が大きいと思う。
あるいは、心の目の方向性。
何を見つめているのか。
愛を知らない人間には、雪を知らない人にその冷たさを教えるようなものなのだろうか。
親だけでなくとも、愛を知る機会は本当は誰にも与えられているはずなのに。

混沌とした時代の中で、先の見えない暗闇ばかりを見つめていると
目が退化した深海魚のようになるのか。
光を必要としない世界。

彼らに光は感じられるのだろうか?

おそらく人類史上はじまって以来、ずっと繰り広げられていると思う。
人間性の両極性。

なぜにそんなことが起こってしまうのだろう。

ある夜、私は夢を見た。
私は、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでの私の人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上に二人の足跡が残されていた。
一つは私の足跡、もう一つは主の足跡であった。
 これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、私は、砂の上の足跡に目を留めた。
そこには一つの足跡しかなかった。
私の人生で一番辛く悲しい時だった。
 この事がいつも私の心を乱していたので、私はその悩みについて主にお尋ねした。
 「主よ。私があなたに従うと決心したとき、
あなたは、すべての道において、私とともに歩み、
私と語り合ってくださると約束されました。
それなのに、私の人生の一番辛い時、一人の足跡しかなかったのです。
一番あなたを必要としたときに、あなたが、なぜ、私を捨てられたのか、私にはわかりません。
主は、ささやかれた
 「わたしの大切な子よ。わたしは、あなたを愛している。
あなたを決して捨てたりはしない。
ましてや、苦しみや試みの時に、足跡が一つだったとき、わたしはあなたを背負って歩いていた。」

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by satsuki_ok | 2009-02-12 21:03 | パンの耳

悲しみを知る

アメリカでは黒人の大統領
アイスランドのゲイの首相
世界のうねりは大きいね
虐げられた歴史が変わろうとしているのか

それなのになぜだろう
なぜか悲しい
きっとそれでも戦争が終わったりしないこと
争いがなくなったりしないこと
全ての人が幸せになれないこと
心のどこかでそう思ってしまう

心の中に欲望がある限り
他人の痛みを感じない限り
同じであるべきことと
違って当たり前のことがあいまいなかぎり
全てが満たされたりはしないから

ほんの小さなことにすら
いらだってしまう自分を知っている
ほんの些細な出来事に傷ついてしまう自分を知っている
優しくありたいと願いながら
体調のために、自分の楽しみのために
冷たい接し方をすることのある自分を知っている
苦手だと思う人を避けようとする自分を知っている
できれば楽な方を選びたい自分を知っている
うっとうしいくらいなら一人で居たい自分も知っている

でも
愛していきたい自分も知っている
優しくありたい自分も知っている
寂しがり屋な自分も知っている
強くありたい自分も知っている
祈りがあることも知っている

主よ、あなたの愛を知っている

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by satsuki_ok | 2009-02-02 21:49 | パンの耳
When they saw the star,
they rejoiced exceedingly with great joy.

Matthew2:10

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by satsuki_ok | 2007-12-24 22:15 | パンの耳

一生のうちの3回

誰にでも一生のうちに少なくとも3回は、
人生を見直すチャンスが与えられるという。

それでも多くの場合、そのチャンスを気がつくことなく、
今までどおりのライフスタイル、考え方を選んでしまいがちなそうだ。

いつでもやるべきことを全力で当たることも大事だろう。
しかし、時には立ち止まって、ゆっくりと自分を見つめなおす。
そんな時間もまたチャンスの一つなのだろうとおもう。

願わくば、人として恥じることない、そんな生き方を選びたい。

自分は弱いけれど、何も持ってはいないけれど、
たった一つだけでも、そんな生き方を神様に捧げられたらいいのに。

何も持たずにこの世に生を受け、多くの人に支えられて今日まで生きてこられた。
その感謝のしるしとして、残りの人生を生きていけたらと、そう思う。

願わくば、たった一人でも生きていけるそんな強さがほしい。
そうして得られた強さを、武器にするのではなく、
与え続ける人になれたらと。

誰にも覚えていられなくても、神様に覚えられるように。
誰にも知られなくても、神様に知られるように。
情けない自分も、受け入れながら
笑顔を作っていけたらいいのに。

とうさん、かあさん、あなたが教えてくれた愛を支えに
踏ん張って生きていけたらいい。
誰にわかってもらえなくても
私の心にあなた方は誇りです。
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by satsuki_ok | 2007-09-09 23:29 | パンの耳

夢を見た

夢を見ました。
満天の星空、天の川の中、
ほんのちいさな星くずさえも
せいいっぱいに輝いている、
そんな星しか見えない空でした。

私は隣にいる誰かに向かって
「きれいですね、こんなに小さな星までも」
と語りかけていました。
黙って頷くだけの人だったけれど、
心の中に語りかけてくる言葉がありました。
「大きさはその星の輝きに関係がない」と。
誰だかわからないその人は、
いつも自分のそばにいて
私のことを良く知っているようでした。
それはなんとも言えない安らぎの中で
心のどこも痛むことのない
とてもしあわせな時間でした。

昨夜、そんな夢を見ました。
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by satsuki_ok | 2006-10-22 13:01 | パンの耳

マザーテレサの心

マザーテレサの心~心理学総合案内・こころの散歩道~

<以下 一部抜粋>
精神分析で有名なフロイトは、その晩年に「人間にとって健康とは?」と質問され、
「愛することと働くこと」と答えています。
健康な状態とは、誰かを愛すること、つまり誰かを信頼し、必要とすること。
そして、働くこと、つまり誰かに必要とされることだと言うわけです。

<聖書とマザーテレサからのメッセージ>

「西欧で、今日最も重い病気は、人々が互いに求めあわず、
愛しあわず、互いに心配しないという病です。
この病を治すことができるのは、ただ一つ、愛だけです。」

「神がいかにあなたを愛しているかを知ったとき、
あなたははじめて、愛を周りに放つことがことができます。」

「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ.」マタイ22-39

「神は愛である」第一ヨハネ4-8

「わたし(神)の目には,あなたは高価で尊い.わたしはあなたを愛している.」イザヤ43-4


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by satsuki_ok | 2006-10-15 19:56 | パンの耳

いのちの鼓動



誰かが見て恥ずかしいと想う生き方でも
誰からも受け入れられないような時でも
いつもイエスキリストはそばにいる

シャウトするように祈ってみる
囁くように祈ってみる
抱きしめてみる言葉

頭で考えるより先に
魂が導く咆哮

叫べ
叫べ
心のままに
踊れ
踊れ
リズムのままに

そうして静まった時
湧き上がってくる想い
その時に聞こえてくる声
せいいっぱい生きたいという
いのちの鼓動
自分のための人生

足ることを知りつつ
感謝する心
生きている喜びは
そうしてあなたに出会えたこと
こうしてあなたに語りかけることができること

そんなに思い詰めたりしないでも
ちょっと視点を変えてみれば
たった一歩を踏みだしてみたら
出会えること

ほらね
澄ました顔のあの人も
しかめっ面なこの人も
ヘラヘラしているあの人だって
ひと皮むけばみんな同じ
恥ずかしくない生き方なんて
神さま以外にできないさ

責めるより許していくこと
戦うよりも祈ること
目先のことだけ想わずに
主にいのちを預けてみれば
希望が最期に残ること
耐えられないような試練は神さまは与えないってこと
そうした神さまとの信頼の中で生き続けていく時
本当の安らぎが訪れるってこと



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by satsuki_ok | 2006-10-15 09:11 | パンの耳

ヨハネの手紙を読んで


御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。
(ヨハネの手紙第1章7節から)

洗礼を受けたのだから、
一瞬にしてその時までの過去の全てが精算されて、
その後まったく罪をおかさないで済むようになる。。
そんな誤解がキリスト教の洗礼に対してあるような気がする。

キリスト者は、罪があるからキリスト者である。
いや、罪を知っているからこそ、キリスト者である。
そして、罪を日々悔い改めるから、キリスト者であるのだ。
多くの人の場合、神懸かり的な「変化」が訪れるわけではなく、
それは継続していくことにより、少しずつ削られながら、
服に付いたシミを落とす作業のように、地道な根気のいる作業である。
あるいは黄ばんだ白い服を漂白していく作業。

知らず知らずのうちに「打算」や「妥協」し、
心の中が薄汚れていく。
激しい憎悪で赤黒く焼けこげた跡かも知れない。
生地によっては、漂白できない種類があるように、
人の心はさらに複雑でデリケートな取り扱いが必要となる。

それは、人にできる作業ではない。
人をつくられた神にしかできない作業である。
ただ私たちはそれを目にして、あるいは触れることによって、
その偉大な御技をする神に感謝するのである。

今、間違った道を歩んでいたとしても、そのことで「罪を知る」ことができるなら、
それは死に至る罪ではなく、かえっていのちへ続く門前にいるのかも知れない。
罪を罪として認めた時、そうしてそれを悔いた時、
はじめて主の尊さ、きよさが実感できるというキリスト者の真実。

ふがいない自分への言い訳。。。かな。。。(苦笑)
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by satsuki_ok | 2006-10-01 13:58 | パンの耳
人は食べるために働く
生きるために食べる
生きるのは愛するため

愛がなければ
生きていけない

だから
キリストの神は愛なのだろうか
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by satsuki_ok | 2006-09-23 19:30 | パンの耳